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日記Diary

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2014年12月31日(水)
世界のどこに住むのがよいか

 2014年も余すところ数時間になった.2014年は,国内外で政治的な事件,武力衝突,自然災害などが多い年だった.日本を取り巻く国際的政治状況は問題を抱えたままになっていて,今後何が起きても不思議ではない感じすらある.
 核兵器とミサイルがあるお蔭で(!),本格的な大戦争には至らないだろうが,経済戦争はいつでも起こり得るし,既に起こっているという見方もできるだろう.また近い将来に局地的な武力紛争がないとは言えない.こういう状況で,新しい年を迎える気分は余り良いものではない.そういうことを考えずに,紅白歌合戦を楽しめる人たちは幸せだ.
 しかし,同じ時間に,尖閣諸島沖の波高い暗い海には,中国海警局の巡視船が数隻いるだろうし,わが国の海上保安庁の巡視船も数隻ずっと張り付いていることだろう.中国海軍の艦艇もやや離れたところに常駐しているらしいので,公表はされていないが,わが海上自衛隊の艦艇も対抗しているのだろう.また,アメリカ空軍や海軍の哨戒機も沖縄の基地か空母から発進して警戒活動を行っているはずだ.ご苦労なことだ.
 今の世界では,どこに住めばよいだろうか.日本などは比較的住みやすいところなのかもしれないが,上記の balance of power が損なわれると,何が起こるかわかったものではない.
 空想の世界で私が住みたいところは,南スイスのルガーノ(Lugano)だ.この辺りは,イタリア語が日常的に話されていて,イタリアと余り違わないが,生活程度は高い.ルガーノ湖は余り大きな湖ではないが,これがあるために,一年間の気候が温暖で,冬は避寒地になり,夏には避暑地になる.日本では余り知られていないかもしれないが,ここはヨーロッパの穴場で,金持ちの別荘なども多い.そういう別荘などはルガーノ湖を見下ろす斜面に建てられていて,日当たりがよい.1946年ノーベル文学賞受賞者のヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse: 1877-1962)は南ドイツ出身だが,スイスに帰化して,この地にずっと住み,ここで没した.
 1966年から67年にかけての1年間,私はミラノ旧市街から東北に約11qの郊外に住んでいたので,スイスには何度も自分で運転して行った.ルガーノにも2度行っており,良いところだということはよく知っている.新車で買ったフィアット(Fiat 850というリアエンジンの小型車で,1年足らずだったが,よく走ってくれた)を,日本に帰る直前に売ったのもルガーノでだった.もう一度行きたいと思うが,残念ながら,それは無理だろう.

2014年11月14日(金)
朝日新聞の社長辞任に絡んで思うこと

9月6日のこの日記に書いたことの責任を取って,朝日新聞の木村伊量(ただかず)社長が今日午後辞任した.このことは,読売ニュース速報で知ったのだが,夕刊には出ていないようだ.辞任したと言っても,特別顧問として社内に残るそうだ.そういうことでは本当に責任を取ったとは言えないだろう.特別顧問の報酬はいくらか,どうせ公表されないだろうが,相当多額のものだろうことは容易に想像できる.
この事件は,国際的な影響が非常に大きくなってしまった誤報を長い間認めなったという,他に例を見ないものだという点で特異なものだ.そういう点では,元社長連中も実はもっとおおきな責任を負っているはずで,そういう連中に対する責任追及はなされなくて良いものなのだろうか.そういう責任を追及する法律はないかもしれないし,あっても時効になってしまっているかもしれない.今後も起こり得ることだから,何らかの法律を制定することが必要だと思う.
経済のグローバル化後,とくに大企業のCEOらが法外な報酬を得ているが,こういうことにも何らかの歯止めは必要ではないだろうか.海外のことはさておき,日本という国では,そういう行為は以前にはなかったことだ.太平洋戦争を起こした第一の責任は,やはり当時首相だった東條英機に帰せられるが,彼でも個人の財産は少なく,これには占領軍の調査員たちも驚いたという話がある.昔は,政治家になることは自分の財産を消費することになったので,「井戸塀(いどべい)」という言葉があったそうだ.要するに,家までなくなって,残るのは井戸と家を囲んでいた塀だけが残るということだ.今の政治家も,平均的には,さほどの財産をもってはいないようだが,そうだからこそ政治資金に絡んでいろいろな事件が跡を絶たない.金が欲しい人は既存の組織に依存するのではなく,自分ひとりの力で稼ぐべきだ.そういう点で,わかり易いのは,メジャーリーグに高級で雇われる野球選手だ.長期間にわたることは難しいが,それでも飛びぬけた高級を得る可能性がある.しかし,世の中は金だけではない.今はそのことをもっと皆が認識しなけれがならないときだと思う.

2014年9月12日(金)
再び朝日新聞について
 今朝の朝日新聞は,昨夜の木村社長の記者会見のことで全紙が埋め尽くされているという感じで,今日だけはざっと見る.それでわかったことは,昨夜の記者会見では,謝罪したという格好を付けただけで,本質は何も変わっていないということだ.編集担当の取締役の職を解くという,いい加減な言い方をしているが,取締役を辞めさせるわけではないうえ,一番の責任者の木村社長が即時辞任するわけでもない.こういう人に,今後の改革と再生の道筋など付けてもらっては困るのだ.
 また,明らかなことは,今年5月の吉田調書に関する「誤報」の訂正を前面に出して,「従軍慰安婦」についてはできるだけ軽く扱おうという姿勢が明らかなことだ.吉田調書に関する「誤報」などはたいした問題ではないのに,それを大きく見せて,本当に重要な「従軍慰安婦」については逃げを打とうとしているのだ.また呆れる.
2014年9月6日(土)
朝日新聞の傲慢さ

 8月5日と6日に,朝日新聞は「慰安婦問題」についてのこれまでの同紙の記事に誤りがあったことを認める記事を掲載した.これは,大きな政治的,外交的な影響を及ぼしてきたものなので,他のマスコミや評論家から強い批判の声があがったのは当然だった.これに対して,8月28日に朝日が掲載した記事は,間違ったことをしたことへの謝罪をせず,問題をはぐらかそうとする意図をもっていることは明らかだった.これには,長い間朝日に親しんできた私も呆れて,以後同紙を読むことを止めた.購読も中止しようと思っているが,その手続きが面倒なこともあって,まだ実現していない.
 しかし,朝日を読まなくても,何ら痛痒を感じないことは既にわかってしまった.もし朝日を読む必要があれば,直ぐ近くにある港区立麻布図書館に行けば良い.今のところ,その必要性も全然感じていない.
 朝日が広告を掲載することを拒否したため,却って読まれているらしい週刊文春と週刊新潮の記事も麻布図書館で読んだ.両誌とも同じような内容で,朝日の傲慢さ,とくに木村伊量(ただかず)社長の「裸の王様」的な態度を厳しく糾弾している.これらの週刊誌の記事が全部正しいかどうかは,私にはわからない.しかし,木村氏が記者会見をして,きちんと謝罪したうえで辞任するべきだという点には,完全に同意する.
 今から78年前の2.26事件で,反乱軍に襲撃された朝日新聞の批判的精神はどこへ行ってしまったのだろうか.

2014年8月23日(土)
とうとう終わった!

 今日2014年8月23日は,私にとって記念すべき日になったと言ってよい.6年も前に計画した,「赤外分光測定法」の英文版に相当する"Introduction to Experimental Infrared Spectroscopy"の校正がようやく終わったのだ.原稿を書き上げて,英国の出版社John Wiley & Sonsに送ったのが昨年末だったのだから,それから何と8箇月という長い期間がかかったことになる.これは,私には全く予想外のことだった.国内でならば,特別な場合以外は,原稿ができ上がってから2箇月以内に製本されるだろう.
 割付けと校正に長い時間がかかった理由は,今や世界的な出版帝国となったWiley社のやり方にある.英国の本社は,原稿を受け取ってから,図に手を加えたり,表紙の図柄を決めるところまでしかしない.その段階でも時間はかかったのだが,図に手を加えるのが下手なことも,校正を送らせた原因になった.何故かわからないが,彼らの技術は日本では考えられないほど低い.それにも拘わらず,このプロセスが維持されているのは,労働組合の存在が関係しているのかもしれない.サッチャー政権の時代に,英国の労働組合の力は昔とは比較にならないぐらい弱くなったはずだが,こういうところでは未だ生きているのだろうか.彼らの技術と製図に対する感性は,製図ソフトに詳しい埼玉大学の院生に到底及ばなかった.院生なら誰でもできるというわけではないが,今では,多分どこの大学にも優れた技術と感性をもっている院生がいるはずだ.
 Wiley社では,その後製本に至るまでのプロセス,つまり原稿をWiley社の方針に沿ったフォーマットにして,割付けするという作業をインドの下請け会社にやらせている.インドは長い間英国の植民地だったので,今でも英語に強い人は大勢居る.かれらの英語の発音は独特で,聞けば直ぐにインド人だなとわかることが多いが,今でも彼らのなかの知識層の英文に対する感覚は,平均的には日本の知識層のそれを遥かに上回っているだろう.したがって,こういう下請けが可能なのだが,今回は,それが悪く働いてしまった.つまり,担当者になったインド人女性は,英語の力はあっても,科学全般に関する知識に乏しかったのだ.そのため,不必要かつ不適切な英文の手直しを勝手にしたので,それを元に戻させることに大変な手間がかかった.これは,私がまったく予期していなかったことで,原稿の英文の手直しを親切にしてくれたイギリス人のJohn Chalmers氏によると「pitfall(落とし穴)」だった.また,原稿には,数式の多い部分もあるのだが,彼女は,数式の処理が下手だった.したがって,数式を普通に良い形にするのにも時間がかかった.こういう細かいことは,パソコンの画面を見ながら話せば容易にわかることだが,メールだけでこちらの意図を確実に伝えるのは容易ではない.彼女が使っているソフトは書籍印刷用の特別なものなので,いろいろなことができる反面,Wordのように簡単なソフトではないから,変なことが起こる原因にもなった.このあたりは難しいところだ.
 結局,ほぼ4箇月を費やして,ようやく今日全体の校正が終わった.あとは,良い形で,製本され,市販されるのを待つだけだ.Amazonでは,既に購入の予約が可能になっており,日本では10月6日から配本されることになっている.目次や最初の数ページを見ることもできる.ペーパーバックだが,この本はその方が使いやすいだろう.そのうちに電子ブックにもなる予定だ.
 この本は,測定法に関するもので,測定されたスペクトルの解析法についてはまったく書かれていない.私は,スペクトル解析法の入門書を書くつもりで,既にいろいろな準備はしてきた.今の高い気温が秋に向けて下がっていくのと逆に,新しい本の執筆に向けての私の取組みは段々に本格化する予定だ.この新しい本こそ,私が書くべき本命なのだ.ここまで来るのが遅れたことは残念だが,ここで,その遅れを逆に活かしたいと思う.

2014年7月27日(日)
2014年7月にあったこと

 2014年7月は,いろいろなことがあった月だった.まだ月末までに数日を残しているが,今月にあった主なことを,まとめて書いておくことにする.
 7月3日(木)に Introduction to Experimental Infrared Spectroscopyの再校をインドのHaseen Khanに送り終えた.1週間ほどで三校を送って来るはずだったが,その後,何の言い訳もなく送って来ないので,こちらから催促したところ,7月31日に送るという,驚くべき返事があった.これに対して,何故そう遅いのかというメールを送っても,返事は来なかった.24日(木)に,Haseen Khanの会社と契約しているWiley社シンガポール支社のRebecca Limに,この状況をどう思っているのか尋ねたところ,彼女も変だと思っていて,Haseen Khanに連絡しており,25日(金)までに返事がなければ,国際電話をかけると言ってきた.26日は土曜日なのに,この日の夜に入ってから(時差があるので,インドでは午後3時ごろか),Haseen Khanから28日(月)からできた分からこちらに送るというメールが来た.インドでの就業日がどうなっているのかわからないが,これまで土曜日にメールが来たことはなかった.28日の午前中に,こちらが指示したcorrections以外には何もしないようにと,再度釘をさす予定.
 7月11日(金)の午後1時過ぎに,Asia SEEDの女性から電話があり,所澤仁氏が入院先の虎の門病院分院で亡くなったことを知らせて来た.これは驚きだった.彼とは6月18日に電話で話しており,それからまだ3週間ほどしか経っていない.お通夜や告別式の日取りが決まるまでに時間がかかった.その原因は,東京ではお盆の時期のため,お寺が忙しいことだった.結局,お通夜は19日(土)午後6時から,告別式は20日(日)午前10時半からということなった.これは,こちらにとっては最悪の日時になった.牧得子叔母の49日の法要と納骨を20日(日)の午前10時から高槻市内で行うことになっており,それに参加することを決めてしまっていたからだ.
 結局,Asia SEEDに勤めている所澤氏のご子息の光さんの特別の計らいで,15日(火)の午後2時半から,所澤氏の遺体が安置されている谷中の葬儀社の施設で,光さんと2人だけで,遺体に面会した.きれいな死に顔だった.遺体には特別な処理がしてあり,ドライアイスで冷やすなどということをしないで,室温で1週間もつということだった.体温はもちろんないが,身体には柔らかさがあった.こういうことは初めての経験だった.お通夜,告別式の両方に出席できないので,御霊前はこのとき光さんに手渡した.光さんが,明日葬儀社に何人ぐらいの会葬者があるか言わないといけないと言っていたので,千人は来ると思うと言っておいたが,これは当たりだったようだ.
 19日(土)の午前9時半ごろ東京駅発のひかりで京都に行き,京都で湖西線に乗り換えて,堅田駅で下車.小雨がパラつく生憎の天候だった.予定どおり,タクシーで比叡山延暦寺大霊園の本生兄の墓に行く.運転手が,事務所でお墓の位置を印した地図をもらって来たので,迷わずに行くことができた.そうでもしないと,この大霊園に初めて来ると,どうしようもないだろう.恒生兄から聞いていたとおり,墓石には「寂静」と彫られていた.想像していたよりも高いところではなく,琵琶湖の湖面は僅かに見える程度の場所だった.ここに,東京方面から来るのは大変だと思った.同じタクシーで堅田駅に戻る.往復で約6,300円.
 湖西線から,大津で播州赤穂行きの新快速に乗り換えて,高槻駅で下車.たかつき京都ホテルのシャトルバスで,ホテルに行き,宿泊.
 20日(日)の午前9時過ぎにタクシーを呼んで,安満北の町の浄誓寺に行く.牧家の人たちは既に来ていた.敬二さん,栄子さんらは,車で川崎から来て,昨夜は神戸のセントポリアに泊まったとのこと.この日も車で来ていた.他に,辻憲二さん,坂田篤子さん・実さん,通称鍛冶屋さんが来ていた.法要は,10時少し前から始まり,途中に休みを入れて,約1時間の読経あり.
 呼んであったタクシーなどに分乗して,墓所に行く.天気は非常に良く,カンカン照りの下での納骨になった.8年前と違って,ごく近くに第2名神高速道路の工事が進んでいて,この墓所全体の雰囲気が悪くなったように思った.お骨を骨壺から白い布の袋に移して,それを墓石の下の空洞に入れた.こういうことは,墓石を作った職人が全部やった.墓の裏側には,得子という文字も刻まれていた.白いお骨を見て,人というものは最後はこうなるということを改めて感じた.この叔母とは血のつながりはないが,約64年前に知り合って以来の長い付き合いで,優しい人だったという記憶しかないのはありがたいことだ.
 またタクシーに分乗して,たかつき京都ホテルに行き,特別室で昼食.坂田篤子さんの隣に座って,坂田家に関することを尋ねる.祖母の「なつ」は坂田家から牧家に嫁いだ人だが,実は3人姉妹の末娘だったことを初めて知る.昼食は2時ごろ終わる.ホテルの前で,牧家の人たちと別れ,JR高槻駅で坂田篤子さんらと別れる.
 京都駅に行き,午後3時半ごろ発のひかりで帰京.
 所澤氏のことで,戸来稔雄氏にメールを出したが,不達のメーセージが届いた.半年前まで普通にメールのやり取りをしていたので,変だと思って,自宅に電話したところ,夫人から彼が5月8日に急逝したことを知らされた.これにも驚く.誰にも知らせずに,家族葬を営んだとのこと.これは,戸来氏自身が前から言っておいたことと思う.所澤氏と戸来氏の死去のことを,理学部化学科のクラスメートのうち10人ほどにメールで知らせた.
 ホームページのエッセイに,7月15日付けで「所澤仁君を悼む」,7月22日付けで「戸来稔雄君を偲ぶ」を掲載.駒場の教養学部から理学部化学科に進学したときの同級生25人のうち,2人を2箇月の間に失ったことになる.これで,他界した人は5人になった.
 25日になって,気になっていたもうひとつのこと,すなわち,坂口洋介氏から所澤氏のことについて返事がなかったので,自宅に電話した.その結果,夫人から,事故で頭部に怪我をして,病院名は聞かなかったが,外科に入院中であることを知らされた.これは,少なくとも11日よりも前のことだ.現在の状況は余り良くなく,コミュニケーションも十分には取れないとのこと.何故こうも良くないことが集中的に起こるのかと思う.同級生の3人だけに,このことは知らせておく.
 梅雨が明けて,都心で35℃ぐらいの日が既に数日続いている.今年も暑い夏になりそうだ.しかし,その中でも,ぼんやりしているわけには行かない.Gaussianの使い方について,人が書いたものをキチンと読んで,実際にやってみることで,時間はかかっているが,段々この面倒なプログラム・パッケージの使い方がわかり始めている.わかっている人から直接聞けば,1時間以内で終わってしまうだろうことに何日もかかっているような気がする.それが,ひとりでいることの欠点だが,仕方がない.自分でプログラミングをしたいという気持ちが以前よりも強くなってきているが,そこまで行けるかどうか.時間との勝負になると,意外な横槍が入るかもしれないので,どうなるか何とも言えない.自分が若くないことを思い知らされる日々が続いている.
 他にも書くべきことはあるが,これぐらいにしておこう.

2014年4月26日(土)
オバマ大統領の訪日

4月23日から25日まで,オバマ大統領が2泊3日で国賓として来日した.昨日と今日は韓国に居て,その後フィリピン,マレーシアに行くことになっている.今回は国賓としての来訪であったにも拘わらず,夫人同伴ではなく,どこか軽い感じがあり,最重要課題であるTPP交渉の今後も見通せないままになってしまった.オバマ氏にとって,成果の乏しいものだったのではないか.
そのような状況のなかで,天皇・皇后両陛下は,オバマ氏を一番丁寧に「おもてなし」された.これは,オバマ氏にもわかったはずだ.最近の天皇・皇后両陛下のお振舞は素晴らしい. 
 安倍政権としては,尖閣諸島が日米安保条約の適用対象であることを大統領が初めて明言したことは,成果といえるかもしれないが,TPPがハッキリしない状況になったことは,まずかったのではないか.それというのも,安倍首相自身がTPPをどういう形で収束させるかについて,明確な意図をもっていないからだ.日本が,この際大きな譲歩をしない限り,交渉は進展しないことは明らかだ.その覚悟が安倍首相にはない.これは,オバマ氏にも今回わかったはずだ.
 また,この問題は,オバマ氏の言うアジア太平洋地域でのリバランスというものの具体的な形が,ハッキリしていないこととも絡んでいる.オバマ氏自身は中国も含めたリバランスを言うが,現実はそう甘いものではない.最終的に中国とどう向き合うかについて,オバマ氏には曖昧なところがある.これは,アメリカと中国の関係の歴史とも関係しているので,簡単なことではないが,今後アメリカと中国が政治と経済の両方でうまくやって行くことは無理になりつつあると思う.同じことは,日本と中国にも言える.これが,今後の日本と世界の最重要課題になって行くだろう.

2014年4月9日(水)
STAP細胞騒動

今日午後1時過ぎごろから,NHK総合TVで,小保方晴子の記者会見をやり始めたので,小1時間も見てしまったが,余り意味のあるものではなかった.
ハッキリしているのは,一番大事なデータを取り違えた論文を取り下げないと言っていることで,これは,彼女はまともな研究者になるための訓練を受けて来なかったということだ.後味の悪い記者会見だった.弁護士を4人も雇っているが,彼らを雇う費用はどうするのだろう.
彼女の不服申立てを受けて,理研が再調査などをすれば,すでに十分に混乱している状況を更に混乱させるだけだろう.理研の調査に慎重さが欠けていたかもしれないが,慎重な調査をしても結論は変わりようがないだろう.問題は,STAP細胞の有無ではなく,Natureに出た論文が適正なものだったかどうかなのに,小保方はSTAP細胞の有無の問題にすり替えようとしている.

2014年2月25日(火)
サウンド・オブ・ミュージックのこと

昨夕受け取ったニューヨーク・タイムズによると,映画「サウンド・オブ・ミュージック」で描かれたトラップ家の子供たちで,最後まで生きていた99歳の女性が,218日にアメリカのヴァーモント州で亡くなった.私は,この映画を1965年または1966年に初めて見て以来,何回か見たが,何回見ても面白いと思った. 
 18日に亡くなった方の本名はマリーア・フランツィスカ (Maria Franziska von Trapp)で,ゲオルク・フォン・トラップ(Georg von Trapp,ハプスブルク王朝の男爵で,オーストリア海軍大佐.第1次世界大戦中まで,オーストリアにも海軍があった)と先妻のアガーテ(Agathe)との間に生まれた7人の子供たちの3番目で,1914928日に生まれた.しかし,映画では,女性家庭教師としてトラップ家に来て,あとでトラップ男爵と結婚するMariaと区別するため,Louisaという名前になっていた.演じたのはHeather Menziesという子役女優だったそうだ.
 Maria Franziskaは,2008年に,映画の舞台となったトラップ家のザルツブルクの邸宅(現在は一部がホテルに,一部が博物館になっているらしい)に行って,懐旧の念にふけったそうだ.80年間に大きく変わった世の中とトラップ家について,彼女はどういう想いを持っただろうか.彼女によると,映画は大体において事実に基づいているが,トラップ男爵は,映画で描かれたほど子供たちに厳しい人ではなく,むしろ優しい人だったそうだ.
 女性家庭教師のMariaがトラップ家に来た,そもそもの原因は,Maria Franziskaが猩紅熱にかかったあと学校に行くことができなかったことにあったのだそうだ.映画で女性家庭教師を演じたジュリー・アンドリュース(Julie Andrews)は今でも健在のようだ.この人は1938年生まれなので,私よりも年下なわけだ.女性家庭教師を英語ではgovernessということを,初めて知った.
 今回,私は,映画と事実には食い違う点があると気づいた.ナチス・ドイツによるオーストリア併合は1938年のことだったので,そのときには,Maria Franziskaは既に23歳か24歳だったはずだということだ.映画では,明らかに13歳ぐらいの少女になっている.本当はどうだったのだろうか?

2014年2月24日(月)
国立大学法人化から10年

今朝の日経に,佐々木毅氏が「国立大学法人化10年 改革の行方」という題でかなり長い記事を掲載しており,明日も続きが出るらしい.運営交付金の削減が現場に悪い影響を与えていること,学長の裁量によって新しいことをしようとしても財政的余裕がなく,法人化したことの意味がなくなっていること,研究費獲得に時間がかかって,教員の研究に使う時間が減っているため,研究が質・量ともに低下していることなど,を挙げている.これらの指摘は正しいが,法人化後10年も経ってから言うのは,遅きに失したものと言わざるを得ない.
 また,国立大学が法人化された当時,佐々木氏は国立大学協会会長だったのだから,法人化の実施についての責任の一端を負っていた.この点に対する自責の念が感じられないのはどうしたことかと思う.

 

2014年2月21日(金)
オリンピックの一面

 ソチ・冬季オリンピックの女子フィギュアのファイナルで,浅田真央がフリーで10人抜き,総合で6位になり,まずは顔が立った.これは,彼女のために本当に良かった.マスコミが過大な期待を彼女にかけた結果,ショートプログラムで彼女を縛ってしまった.この責任は誰も取らない.浅田は,フリーではトップではなかったもののトップとの差は僅かだった.よくやった.キム・ヨナは総合2位で,2回連続の金メダル獲得はならなかった.これは,浅田にとって,せめてもの慰めになるだろう.金メダルは,ロシアの17歳ソトニコワが得たが,これは地元の大声援に負うところが大きい.オリンピックには,いろいろなドラマがあるが,その中には嫌なこともある.

2014年2月10日(月)
都知事選の結果

 昨日の都知事選の結果が出た.舛添は211万票あまりを獲得して,当選した.まあ順当なところだろうが,投票率が46%だから,有権者全体の割合ではせいぜい20%から25%の間ぐらいだろう.しかし,彼の票数は,2位の宇都宮,小差で3位の細川の票数を合わせたものを上回っているので,独走に近かった.一方,田母神が60万票も取り,しかも20歳代では24%もあった.田母神票は年代順にきれいに減っており,70歳以上では6%しかなかった.逆に,舛添票は20歳代では36%だが,年代が上がるにしたがって増え,70歳代以上では55%だった.この2人の票を合わせると,どの年代でも約60%になる.これは,どういうことを意味しているのだろう? 若年層の右傾化のように見えるが,本当にそうなのだろうか?

2014年1月23日(木)
77歳になる

 
 今日で,私は77歳になった.それを祝うかのような快晴が嬉しい.
 若い時には,自分が77歳になったら,どうなっているかなどということを考えたこともなかったが,実際になってみると,どうということもない.
 毎日が結構忙しいことは,少しも変わっていない.'Introduction to Experimental Infrared Spectroscopy' の出版に関してするべきことがまだ残っており,それにも時間を使っているが,一昨日は,少し調子が変になったスマホを新しいものと買い換えた.新しいものは,富士通の「らくらくスマホ2」で,シニアー用なので,字が大きいだけでなく,その他の点でも使いやすいようで,一応満足している.まだ,使い方を十分にわかっていないので,勉強しないといけない.まだするべきこと,したいことがたくさんあるが,どこまでできるかは天のみぞ知る,というところだ.

2014年1月17日(金)
小野田寛郎元陸軍少尉の死去

 今年に入ってから,日記に書いておきたいという気持ちになることがなく,日記に長い空白が生じてしまった.
 ところが,今日の夕刊で,小野田寛郎元陸軍少尉が91歳で静かに亡くなったことが,かなり大きく取り上げられており,これが今年最初の日記の対象になった.
 太平洋戦争が終わってから,フィリピンのルバング島での残置諜者として,一人だけの戦争を29年にわたって続けた,この人は驚くべき人物だったと思う.しかし,帰国してからの人生は意外に普通なものだったようだ.ブラジルで牛を買う農場を経営しながら,日本国内ではいろいろな教育活動をしていたそうだ.自分には厳しく,他人には優しかったというのが,知っている人たちの評価だ.

 小野田元少尉が亡くなったことで,太平洋戦争も戦後も本当に終わったと思うのだが,そう思いたくない人たちも未だ居ることが,この国のこれからの問題だと思う.

2013年12月31日(火)
大晦日に思うこと

 明日から2014年になる.どういう年になるか,簡単に予想できると思っている人は余程気楽な性格の持ち主だろう.物理学の基本に,不確定性原理というものがあるが,現在の世界は,不確実性がどんどん蔓延していっているようだ.この2つに関係はないと思うが,英語では,どちらも 'uncertainty' で表現されるだろう.
私は,もう一箇月もしないうちに,満77歳になる.それでも,まだ平均寿命に達しない.平均余命は,まだ10年ほどあるほずだ.その間に,何か 'certain' なことをすることはできないだろうかと,ずっと考えている.今更,世の中を変えることに関われる歳ではないから,まったく個人的にできることで,'certain' なことがあれば,それをなしとげるまで,何とか頭と体を正常な状態に保ちたいと思う.

2013年12月25日(水)
消費税増税と国の予算

 1225日の新聞は,昨日安倍内閣が2014年度の一般会計予算を96兆円というこれまでで最高の額にすることを決めたことを報じた.大盤振る舞いとも書いている.日経の社説は「財政再建の一歩といえる予算か」という題で,厳しく批判しているのは,さすがと言うべきだろう.朝日も,「『100兆円』を続ける気か」という題で批判しているが,長さが半分しかないもので,鋭さにも欠ける.消費税増税によって,財政再建をするはずだったのに,実際には逆のことをしている.これまで私は消費税増税に賛成してきたが,安倍内閣による消費税の10%への増税には反対せざるを得ない.この内閣は,まさに国を将来を目茶目茶にしようとしていると思う.

2013年12月23日(月)
朝日新聞は朝日旧聞か?

今日20131223日の朝日新聞の1面トップニュースが,12月5日に南シナ海で起きた,アメリカのミサイル巡洋艦カウペンスと中国艦のニアミスのことだ.とくに新しい情報はなく,もうわかっていることを引き延ばして書いたものだ.これでは,朝日新聞ではなく,朝日旧聞と名前を変える方が良い.特定秘密保護法が成立した今,主たる新聞がこれでは,将来が思いやられる.

2013年12月15日(日)
英文本用原稿のupload完了

 昨日,過去約5年間にわたって懸案になっていた,赤外分光測定法に関する英文の本を出版するという計画の最終段階として,全ての原稿(文章)と図をJohn Wiley & Sons(英国)の指定されたサイトにuploadするという作業を完了することができた.
この英文本のための原稿は,22編のChaptersと6編のAppendicesとからなり,その量は小さなものではない.実際の作業は,坂本章さんがSAPIARC研究室に来て,してくれた.私自身がしておくべきだったことで,未だしていなかった図の番号付けの統一などもしたので,原稿(文章)と図の全てをuploadするのに3時間以上を要した.簡単なことではなかったが,それは予想していたことだった.だからこそ,こういうことに私よりも経験のある坂本さんに,わざわざSAPIARC研究室にまで来てもらったのだ.
これで,あとはWiley社の担当者の仕事になる.校正の作業を経て,出版されることになるが,何時実際に出版されるかはまだわからない.しかし,早く出版されることが待たれる.

2013年12月4日(水)
日米中の今後

 昨日,Biden副大統領が来て,安倍らと中国の防空識別圏のことを話合い,両国の足並みを揃えることができたということになっているが,それは安倍の口先だけのことで,事はそう簡単ではない.アメリカ,とくにオバマ周辺は,いわば二股をかけようとしていることは間違いない.何か実際に起きると,沖縄駐留その他のアメリカ軍は決して中国軍に妥協しないだろうから,オバマ政権の思いどおりにはならないだろう.日本はもう暫くそういう状況が続く間に,防衛力を高めなければならない.財政が苦しくなるが,止むを得ない.

2013年11月30日(土)
日米安保条約の今後

 ニューヨークタイムズの速報が,オバマ政権がアメリカの民間航空に対して,中国が設定した防空識別圏を通過する民間航空に飛行計画書を中国側に出すよう求めたことを伝えた.一方で,軍事的な目的では,中国の要求を無視するという,矛盾とも言えることを伝えている.本当かどうかは確かめないとわからないが,現在のオバマ政権の対中国政策は揺らいでいるように見えるので,ニューヨークタイムズの速報は正しいのかもしれない.
 これは,日米安保条約の今後に対して,非常に大きな影響を持つことになるだろう.これまでの,日本の外交や防衛に関する政策は根本から作り直さないといけないことになる可能性が出てきたということだ.太平洋戦争後ずっと続いてきたアメリカに寄り掛かった外交・防衛を変えるという大変な問題を抱えることになる.私は,いずれそういうときが来るだろうと思ってはいたが,それが非常に早まることになりそうだ.日本にとっては,辛い時期に入る可能性が高くなってきたと思う.

2013年11月21日(木)
サンガー死去

 去る11月19日に,ノーベル化学賞を2度受賞したサンガー(Frederick Sanger)が,ケンブリッジの病院で死去していたことが新聞に出ていた.95歳だった.サンガーは1958年に「タンパク質とくにインスリンの構造に関する研究」でノーベル化学賞を受けた.この方法は画期的なもので,タンパク質研究を大いに発展させたが,実際にこの方法でタンパク質の一次構造を決定するのは大変な仕事であった.また1980年には,「核酸塩基配列の解明」で2度目のノーベル化学賞を受賞した.ノーベル化学賞を2度受賞したのはサンガーだけであり,どちらの業績も文句なしにノーベル化学賞に値するものだ.一種の天才だったと思う.少し変わったところのある人で,ケンブリッジ大学に所属していたが,教職には付かず,研究に専念していたようだ.私は,彼に一度も会うことがなかったことを,残念に思っている.

2013年10月25日(金)
竹島,尖閣の動画

 竹島や尖閣諸島に関する動画を外務省のHPに掲載されたことが問題にされているので,見たが,短いもので,従来からの立場を述べているにすぎず,英語版の動画は見当たらない.各国語での説明文は前から掲載してある.何を今さら韓国や中国が動画を問題にしているのかわからない.しかも,韓国は遥かに長い動画を自分の方には掲載しているそうだ.とにかく言い負けてはいけないと思う.

2013年9月8日(日)
2020年東京オリンピック

 2020年に東京でオリンピックが開催されることが決まった.イスタンブールとの決選投票になったのは,私には意外だった.何故マドリードが残らなかったのだろう.今のシリア情勢では,その隣国のトルコでオリンピックを開催することには不安がある.東京に決まったのは当然だと思う.その意味で,マドリードが最初に落ちてしまったのは意外だった.EU内での支持が余り得られていなかったのだろう.これは,事前に指摘されていたことと符号する.
 2020年というと7年も先だから,私が生きているかどうかはわからないが,生きていたとしても,1964年の東京オリンピックで味わった感動をまた感じることができるとは思えない.
 1964年10月10日の東京は快晴だった.私と家内はその1週間前の10月3日に結婚式を挙げて,新婚旅行から帰ってきたばかりだった.荻窪駅の近くにあった小さなアパートの東向の窓から見た,真っ青な空に描かれた5輪のマークは今でも忘れられない.これは,国立競技場で開会式が行われたとき,航空自衛隊のアクロバット飛行チームが競技場の上空に描いたものだった.経済の高度成長に突き進んだ日本の象徴だったと思う.
 2020年東京オリンピックが象徴するものは何か? これを明確にするのが,これからの日本の課題だと思う.

2013年9月2日(月)
宮崎駿監督の引退表明

 今朝の朝刊で,宮崎駿監督が引退を表明したことを知った.最近作の「風立ちぬ」を最後とすることになった.するべきことは全部したという気持ちがあるのだろう.ぐずぐずといつまでも現役でいたがる人たちが多くなっている今,立派な決断だと思う.早過ぎると惜しまれているが,そういう時に引退するのが一番良い.

2013年8月25日(日)
今日は母の誕生日

 私は,最近朝起きたら直ぐに,カレンダーの今日のところに印を付けるようにしている.今日が何日で何曜日かをしっかり頭に入れるためだ.勤めている人は,そんなことをする必要はないが,今の私には,そういうことも意味のあることになっている.それで,気付いたのは,今日は母の誕生日で,生きていれば,103歳になったはずだということだ.母は明治43年(1910年)生まれだった.私は三男で末っ子だが,母が26歳のときに生まれており,当時の女性は若くして母親になるのが普通だった.
 母は大阪府立大手前高等女学校(現大手前高等学校)を卒業したが,それ以上の特別な学歴はなかった.当時,大手前高女は大阪府でランク1位の女学校だったが,卒業後専門学校などに進学する人は少なかったのかもしれない.しかし,母はいわゆる常識の発達した人で,とくに母から勉強を教えてもらったことはなかったが,何となく教えられることは多かったと思う.手仕事は何でも器用にこなしていて,昔のことだから針仕事は女性の第一の仕事だったが,上手で手早くやっていた.私は,それを当たり前のことのように思っていたが,今から思うと,普通以上に上手だったのではないかと思う.母が,自分は看護婦(今の言い方では看護師)になりたかったと言ったのを聞いた憶えがあるが,確かに,看護婦になっていれば,間違いなく婦長まで行っただろう.
 家族・親族とだけでなく,他人との付き合いも円滑で,受けの良い人だった.自分の主張を押し出すようなことをしたことは,私の記憶にはない.昔風の「婦徳」を十分に身に付けていて,内助の功も相当に大きかったようだ.後年,父もそれは認めていたと思う.
 母は常々健康で,病気などしたことのない人だったが,68歳のとき,突然クモ膜下出血で急逝した.入院した東京医科歯科大学附属病院の医師の申し出によって,病理解剖をして,死因はクモ膜下に大きな出血があったことだとわかった.今ならば,処置が早ければ,手術で治せる可能性もあるようだが,亡くなった1979年の段階では,それはできなかった.家族はもちろんのこと,多くの知合いから惜しまれての死去だった.
 亡くなった人たちで,今話ができれば良いと思う人たちが何人かいるが,母はその第一番目の人だ.母は,いわゆる聞き上手な人でもあった.

2013年8月9日(金)
国債残高が1千兆円を突破

 今日の夕刊で,財務省が国債残高が初めて1千兆円を突破したことを発表したことを知る.毎年増え続けているが,アベノミクスで更に増え,今後もその傾向は収まらないだろう.安部首相も黒田日銀総裁も,財政の健全化を口にはするが,やっていることは逆だ.私には,アベノミクスは国債残高を増やす悪い効果しかないとしか思えない.司馬遼太郎が,亡くなる前に,いろいろな面でこの国の将来を非常に心配していたが,真に国を思う心の持ち主だったと思う.しかし,国というものは訳のわからないもので,悪い方向に動き出すと止まらないことがしばしばある.1930年代の日本もそうだったことは,少し現代史を読めば,誰にでもわかることだ.しかし,それが今忘れ去られようとしている.今日は全国的に猛暑日だが,35℃の東京で,これを書いている.

2013年7月31日(水)
Alexander Williamson夫妻の記念碑は誰が建てたか

 7月25日の日記の続きだが,Alexander Williamson夫妻の記念碑を建てたのは誰かがわかった.私の古くからの友人であるUniversity College London(ロンドン大学のひとつと言ってもよい)のRobin Clark氏と,このことでメールのやり取りをした結果,建てたのはロンドンにあるThree Wheelsという仏教団体だとわかった.これは,福岡に本拠がある浄土真宗正行寺(しょうぎょうじ)のロンドン別院のようなもので,日本語では三輪精舎(さんりんしょうじゃ)と呼ばれている.
 何故ここがAlexander Williamson夫妻の記念碑を建てたかというと,明治維新のころ,ロンドンに留学していた日本人学生で死去した人がいて,その人の墓を作ることにWilliamsonが尽力したことがあったようで,そのことをThree Wheels関係者が知ったためのようだ.したがって,伊藤博文らがWilliamsonの世話になったということとは直接の関係はない.Three Wheelsの活動については,ネットで詳しく知ることができることもわかった.

2013年7月25日(木)
Alexander Williamson夫妻の記念碑

 朝日朝刊の「人」の欄に,University College Londonの「副学長」だったというJohn White(88)という人のことが出ており,この人の専門は美術史だそうだが,最近この人のデザインでAlexander Williamson夫妻の記念碑がロンドン郊外に作られたと書いてある.Williamsonは明治になる以前から,日本と関係があった人だが,専門は化学で,UCLの教授だった人だ.東大化学科の最初の日本人教授だったと言ってもよい櫻井錠二先生との関係も深かった.亡くなってから百年ぐらい経つだろうから,その機会に記念碑が建てられたのだろうか? どういう経緯で,どこに建てられたのか,UCLの名誉教授のRobin Clarkに尋ねてみようと思う.

2013年7月19日(金)
デトロイト市の財政破綻

 今日の夕刊などの速報によると,前から話には出ていたことだが,デトロイト市が180億ドル(約1兆8千億円)の負債を抱えて,倒産し,今後は裁判所の管理下で財政再建を行うという.過去半世紀の間に,人口が三分の一になってしまったことで,収入が減ったことが直接的な原因だというが,私がミシガン大学(デトロイトの中心部から約50キロほど離れている)に居た半世紀近く前から,いろいろ問題はあったところだ.1970年ごろには,一旦持ち直したように見えたのだが,結局ダメだった.しかし,デトロイトのメトロポリタン空港は,当時よりも遥かに立派になっている.このコントラストは何を意味するのだろう.かつて栄えた北米の都市の多くが,似たような状況になっているので,アメリカに大きな衝撃を与えているようだ.日本の都市にとっても,決して他人事ではないと思う.

2013年6月29日(土)
東京地検特捜部が輝いた時代

 昨日81歳で亡くなった吉村祐介元検事総長のことは,朝日も日経もべた褒めだ.旧制六高から岡山大学に行っており,猛勉強をして,司法試験に合格したのだそうだから,多分京大あたりに入ることができなかったのだろうが,それが逆に励みになったのかもしれない.厳しい人で,他人を褒めることをしなかったが,案外人からは慕われたという.東京地検特捜部副部長のときに田中角栄を逮捕した.これは大変なことだったが,淡々としており,法の下での平等ということを言っていたそうだ.自宅では何もせず,79歳の夫人には「お前は世の中の汚いことを知らないでよい」と言って,仕事の話はしなかった.良い時代を過ごせた人だったと言えるだろう.

2013年6月4日(火)
言い負けしないこと

 今朝の朝日新聞に,今月10日から26日まで,日米合同の離島防衛訓練がカリフォルニア州サンディエゴ付近のペンドルトン基地とサンクレメンテ島で行われる予定になっていることについて,中国が中止を要請していることがわかったという記事が出ていた.もし本当ならば,「そんなこと,よく言うぜ」という感じだ.中国は,最近初の空母「遼寧」を完成して,東シナ海で発着艦の訓練を始めようとしている.そういうことを止めるから,日米合同の訓練を中止してくれというのならば,話はわからないでもない.
 中国人には,自己主張の強い人の割合が日本人よりずっと高いというのが,私の印象だ.英語が下手でもワイワイ言う人が多い.これからは,そういう人たちとまともに向き合っていかなければならない.これは生活態度の問題で,英語または中国語で話せるかどうかとは次元の違うことだ.日本人も最近は自分たちの間では,結構自己主張をする人も増えているようだが,外国人相手に自己主張することは下手だと思う.外国人に対して言い負けしないことが,これからの問題のひとつだと思う.

2013年6月2日(日)
パソコンのソフト

自分のホームページの日記欄に昨日書いたことが,他のパソコンでは見ることができるにも拘わらず,それを書いてホームページに掲載した,私自身のDELLの新しいパソコンでは見ることができないという奇妙なことが起きた.仕方がないので,今朝になってから,DELLが開いている相談窓口に電話した(日曜でも夜でも開いている).DELLは,説明書のようなものは全く送ってこないが,相談窓口の対応は親切だ.Windows 8 を使っているので,私の知合いの人たちには尋ねても意味がないことが多く,4月以来3回電話したが,対応した3人(男性ばかり)は皆親切で,今日も,一旦電話を切って,向こうで対応の仕方を検討してから,こちらに電話してきて,対応の仕方を知らせてくれた.つまり,DELLの人にも即答できない問題だったのだが,それを自分で何とかする方法を見つけてくれたわけだ.今のパソコンのソフトは極めて複雑なものだ. 
 コンピューターのハードは最も重要なものだが,その性能を十分発揮するには良いソフトがなければならない.また,それを使いこなす力量がユーザーに求められる.そういう当たり前のことを,Windows 8 で動くDELLの新しいパソコンにOffice 2013を載せて使い始めて以来,痛切に感じさせられている.Office 2013,とくにWord 2013にもいろいろ問題があり,これについてはMicrosoft Japanに電話して尋ねているが,対応してくれるのは女性が多く,対応の仕方はさまざまだが,ともかくこちらの質問には答えてくれる.
 これからは,こういう仕事につける人材の育成が益々重要になるだろう.海外では,現地人の育成も欠かせないから,企業も大変だと思う.もう40年近く前のことになってしまったが,日本でのコンピューター科学の草分けだった高橋秀俊先生(故人)が,ソフト開発にはいくらでも人が必要になると言われていたことを思い出す.

2013年6月1日(土)
図書館の将来

 今日は,注文しておいた本を受け取るため,本郷の東大生協書籍部に朝10時過ぎに行った.生協の本部は土曜,日曜は休業しているが,何故か書籍部は昔から平日と少し違う時間帯で営業している.土曜日には地下鉄(大江戸線)が混まないので,私は土曜日に出かけることが多い.生協書籍部では,邦書は定価の1割引きで買える.これは,少し値段の高い本では魅力的なことだ.今日買った本は5千円以上だったので,その1割程度で,赤門の近くに比較的最近にできたUTカフェでコーヒーを飲んだ.
 カフェから道を隔てたところに総合図書館がある.今年初めぐらいから,図書館正面玄関に面する広場の地下に,図書収蔵庫を新たに造る工事が始まっている.どれだけの費用がかかるのかは知らないが,地下にわざわざ造ろうとしているのだから,10億円は下らないだろう.これは,今の時代には無駄なことだと,私は思っている.カリフォルニア大学バークレー校も同じことを10数年前にしたので,その真似をしているような感じだが,10数年前と現在とでは,書籍というものに対する考え方に大きな違いがあると思う.要するに,電子図書というものが書籍の主流を占める時代が既に目の前まで来ているのだ.冊子体の本がなくなるとは思わないが,図書を保存するという図書館の機能(archive)は,電子図書が担うことは現実に起こっていることだ.現在のように多数の本が出版されれば,収蔵庫をいくら増やしても足りない状況になることは目に見えている.その点で,電子書籍のもつ機能を生かさない手はない.電子書籍なら,
本の数がいくら増えても,大きな場所を必要としない.
 新たに地下収蔵庫を造ることを決めた人たちは,何を考えているのだろう?

2013年5月2日(木)
宮澤辰雄さんのお墓に詣でる

 今日は,GWの後半が始まる前の普通の日で,しかも気温が比較的低く,お墓参りをするには良い条件が揃っていたので,鎌倉霊園にある宮澤辰雄さんのお墓に初めてお参りすることにした.9時ごろ,出かけて,品川駅から横須賀線に久しぶりに乗った.車内は予想よりも混んでいたが,ともかく座ることはできた.
 鎌倉の駅は人で一杯になっていて,東京駅と変わらないぐらいだった.東側出口を出たところから,京浜バスに乗り,鎌倉霊園正門まで行った.道が混んでいたので,タクシーに乗っても,時間は余り変わらなかっただろう.鎌倉霊園に来たのは初めてだが,広大なものだ.管理事務所で,宮澤夫人の玲子さんに教えてもらった墓番号を見せて,地図に印をつけてもらった.管理事務所から余り遠くないところだったが,かなり階段を上らないと行けない.ともかく,お墓は直ぐに見つかった.黒い墓石に宮澤とだけ彫ってある簡素な作りが良かった.裏に,宮澤辰雄さんの生没年月日が記されていた.周りに小さな花壇があり,良い感じのするお墓だった.他に誰もいなかったので,暫く宮澤さんと会話をした気分になれた.
 宮澤辰雄さんは,私が恩義を感じている数人のうちのひとりで,今回初めてお墓参りをして,一度はしないといけないと思っていたことができて,ほっとした.
 それにしても,何故宮澤さんはあんなに早く,まだ60歳代半ばで急逝されたのだろうか.去る4月30日は,20回目の命日だった.もうあれから20年も経ってしまったのだ.宮澤さんが生きておられれば,いろいろなことが今とは違っていた可能性がある.どうなっていたことだろうか.
 室町時代前期の禅僧であり,歌僧であった正徹の歌 「思ひつつかたり出さぬ古へを ひとりしのぶとしる人もなし」そのままの一日だった.

2013年4月9日(火)
日記の再開

今日まで長い間日記を書いていなかったが,それにはいろいろな理由があった.とくにこの2週間ほどは,新しいWindows&nbsp;8で動くパソコンを使いこなすことに,大変な時間を費やしたことにある.このOSが今後どうなるかについての意見は分かれているようだが,私はある意味で頭の切替えが必要ではあるが,それができれば,それほど悪いものではないと思っている.世の中は進み,変わっていく.これは止めようがない.それを象徴しているような感じがしている.


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